記憶から
語ろうと伝えようとする言葉は相手に通じない、聞く耳を持たないもしくは、その意味が伝わらない。その場合、伝えることをやめてしまう。心の中で諦めてそこに収める。相手を必要とする会話の難しさ、もしくは相手にそれを求める難しさでもある。同じような感じで理解や共感を得られない相手と会話をするだるさは、毎度初めから事情を事細かに説明しなければならない煩雑さと同義である。
人は、話を聞くより自分の話を聞いてほしい。そして相手の不幸の材料があれば親身になって聞いたふりをして、よその人にネタとして広める。そこに悪意がなくても会話をする手段として、聞いた話を面白おかしく伝える。本人はいないのだから、言ったかどうか知るすべはないのだから。
でも私は、私の人生の一部が面白コンテンツとして会ったこともない人に知られて広められる屈辱にどう対応すればよいのかわかりかねる。なぜなら相手を信じて話した内容を、その相手が一介の面白コンテンツとして他人に吹聴してまわるなど想像できるだろうか?
単に人を見る目がない、ということだろうか?
私が見たいのは下衆でもよいから対岸の火事を見ていたい。自らの足場が燃える様など見たくない。つらいと打ち明けた話をペラペラと他人に話されて、訳知り顔でさらなる他人に共有されることを望んではいない。とするなら、そもそも人にプライベートを話すのは無策であると言えよう。それがあなたの思う友達であったとしても。
どんなに親しくても他人なのだ。