母が亡くなりました

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はじめに
3/21死去、3/25通夜、3/26告別式で葬儀は終了しております。
生前お世話になった方にはあつく御礼を申し上げます。

  

2月中旬~3月中はあまり仕事もせずぼんやりとしていたが、実家から呼ばれる回数も多いので、後半は余っていた有給を消費すべく月末まで実家に滞在することにした。呼ばれる内容も不明瞭で要領を得ない。私がいたところでなにかできるわけでもないのだが…。


母に関してすでに病状は良くなかった。2017/11にS4癌宣告を受けてから抗がん剤をつかっていたが、2019/1末で抗がん剤も終了してしまい、2月以降は緩和ケアへの入院を勧められている状態であった。それでも2月初旬はクロスカントリーの大会に出るなど自立した生活を送っていた。


私が本件とは別予定で2/24に帰省した際には、母は既に実家で寝たきりであった。そういった事前情報は全く共有されていないので、家にいくと半死の母がいたという、なんとも言い難い状況である。食事も排泄も満足にできない状態で動けなくなってから、すでに一週間たっているという。介護の知識も設備もないなか、力技で父がむりやり対応している様子は、母の尊厳が失われているとしか思えなかった。世話している本人は、「俺が世話をしている」という充実感があるようだが、それを望まぬ当人にとってただの苦痛でしかない。入院したいという母の希望を無視して、一週間強制的な世話をしていることが分かったため、母の尊厳のためにも入院をするよう強く勧め、翌日入院することができた。
一度入院すると生きて帰ってこれないことを父は気にしていたが、このままこの状態でいたらもっと早く亡くなっていたのではないかと思う。

2/25(月)午前中に病院へ連絡。空きベッドがあるのか不明だったが大部屋に空きがあるというので午後から入院した。本人と単語レベルのやり取りは可能だが、会話というような意思疎通は既に難しい。手振りや表情、首振りから意思を汲み取って会話とするような状態である。私の2月の滞在は25日までであったため、入院手続きを済ませいったん東京に戻る。この日の夜に母側の叔母に初めて彼女の病状を連絡する。だましうちの状態に近いが、叔母が急遽関西から長期間滞在してくれることとなった。

3月の最初の週にまた実家から電話。様子が良いのか悪いのか見て判断してほしいという雑な連絡をもらう。3/7-3/10の予定で滞在する。一日の大半を病院で過ごすも特に会話があるわけでなく、同じ空間にいるだけのこと。叔母がこまめに世話をしていた。食事がほとんどできず水もひとくち、ふたくちレベルである。点滴でいくらか栄養をいれたところで経口摂取ができなければ衰弱は進行していく。
また、痛みが強く、痛み止めが切れるたびにナースコールを押していたので1時間から2時間おきに呼ぶといった状態であった。もっと強い薬でほとんど眠った状態にすることも可能だが、覚醒時間がほとんどなくなってしまうため、それはしないようにしていた。まあ、起きていても痛みで罵詈雑言が飛んでくるわけだが、そういうのは昔から慣れているので許容範囲である。

父は自称プロテインとビタミンが癌にうちかつというネット論文をベースに、差し入れはサプリとプロテインばかり。患者が好むかといえば好まない。それでも治ると信じて毎日仕入れていた。ほかに食べたいものがあればなんでも用意していたが、口から入ることはほとんどなかった。

3/10に一旦戻る。大きな変化もないのでしばらくは安心かと思っていたが3/13再び連絡あり。また様子を見てほしいという。病院では医師も看護師も日々様子を見ているわけだが、その判断をよしとしていない様子。特に医師に関しては無闇に前向きな目標を患者に提示し、母もその時は機嫌よく返事をしたり動いたりしている。看護師の話ではあまりよろしくない経過であるといろいろな方から聞く。

期間が読めないのと毎回飛行機はお金がつらいので、3/15-3/30で有給休暇を消化していくことにする。

痛みは先週よりも強く、痛み止めを強いものにし本数も増やすことになった。痛い痛いはなくなったが、会話はほぼできなくなった。目が覚めたときに飲むか食べるかを聞く程度である。それでも半日は滞在して食事の様子を見守っていた。叔母は朝から消灯まで滞在しており、後半は泊まり込みで面倒をみていたので頭の下がる思いである。

3/15-3/18は特に変化なく、痛みと食欲がないという状態はそのまま。18日に薬の種類を変えたため、夜の行動を心配して叔母が付き添っていた。3/19-3/20については私が熱を出してしまい見舞いに行けず。明けて、3/21は2日も休んでしまったので行かねばという気持ちで午後向かう。ここで連日通っていた父が今日は行かぬと言う。前日20日の夜に、「医者とは口を聞くのに、俺のことを無視するとは何事か」と母相手に激昂。例の、一方的に世話してやっている気持ちの爆発である。病院まで車を出してくれたが中には入らぬというので、家には帰らず界隈で待機しておくように伝えた。

病室では叔母が待機していた。昨晩に薬が変わったこともあり、夜はほぼ眠れておらず叫んだりもしていたが、さきほど落ち着いたところだという。30分ほど静かにしていると覚醒した様子であったが、呼吸にたんが詰まったような音が交じる。巡回にきていた看護師からこの呼吸はよくないものなので至急家族を呼ぶよう言われる。

父ほかに連絡をとる。脈も130-110-90と1時間ごとにどんどん下がっていく。酸素を追加するも呼吸が浅く、十分な酸素が吸えていない。家族が見守る中、危険な状態といわれてから2時間ほどで死去。

夕方亡くなったのですぐ退去せねばと構えていたが、夜の搬出でよいというのでお言葉に甘える。バタバタと退去の準備をし、母をきれいにしてもらう。小雨の夜に退去して実家へと帰った。

 

葬儀について、3/25(月)が友引というので3/23,3/24 もしくは3/25,3/26という候補になる。父が長く母と過ごしたいというので3/25で進行する。生きているときには会話の通じなかった人間に、死して一方的に話しかける様は記憶の塗り替え以外の何者でもないと思う。

坊主も呼ばず、墓にも埋葬しない。偲ぶ会とやらを脳内で設定しているようで、呼ぶ人間も故人にゆかりのある人ではなく父が呼びたい人間だけである。そして、父の呼びたい人間は、故人の嫌っていた人間である。葬儀屋さんが気を利かせてくれたおかげで、無茶な内容であったがそれらしい会となったのでたいへん助かった。呼ばれた人間たちは無神経に好き勝手やっていたので、これからも葬式以外では会いたくないという気持ちを深めた。

骨はやはり埋葬せず手元に置くようである。
母が無くなる直前まで学んだ教材を、目の敵のように捨てていき、父の思い出の美しい母は30年以上前の姿である。

母の誕生日であった3/27に大学から卒業証書が届く。事前に連絡をいただいていたが、式には出られぬと代理返答しておいたので、郵送で送っていただける手はずになっていた。卒業証書を本人に見せたかったなと今でも思う。社会とのつながりが消えたまま亡くなってしまうのは残念なので、お悔やみ欄に葬儀終了後でもいいから掲載をしてほしいと父に伝えたが、全部無視されている。

貯蓄などはまとめて管理されていたので、不明なものがないかの確認をした。それ以外、特にすることもなく母が生前書き溜めていた日記を見つけて少し読む程度であった。故人の心の闇がたくさん記されていた。その多くは無能で、無遠慮な人間に対する侮蔑と恨みであった。

焼き場で一緒に燃やせば良かったなあと思ったりもする。

 父と会話をするが理解されるわけではないので、この人間と会話する意味が見出だせないし、母も同じように感じていたのだろうと日記から思う。生きている間のコミュニケーションは大切だなと改めて思った。 

 

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