アレは終わった
母はまだ生きている。アレとともに余命半年と言われて、いまたぶんロスタイムを生きている。S4の予後1年は1.4%に満たない。手術もできない状態でどこまで人が生きられるか。食事もほとんどできていない。奇跡はおきます?オーガニックな生活?癌が消えた?そういうことはどうでもいい。確証のある手段がほしい。アレは死んだ。予定通りに死んだ。私は次の死に体を作っている。生まれる前から死ぬための。
そして地震が来て、生きることの意味みたいなものをまた考える時間がきて。日常の続きであれば、おだやかに終わることもあるのに強く生きることを再度認識させられるとは。なんのために時間を費やしているのか。いまも答えがでない。何を受容すればよいのか。私の無駄な時間や生き方は誰かと入れ替えができないのか。
死にゆく人ともの
12月はいろいろあった。
仕事では同じチームの二人の人間が続けて休職となったアオリをうけて、卒業予定であったチームに残留となった上に仕事量はさらに倍という感じ。よそから人員が補充されるも能力があるとは言い難い人たちに1から作業を教えるには時間がない。無能を合体させて有能が一人生まれればいいのだが、大抵事故るのでそうもいかない。
もともと終わるとされているものに対する終了処理なので、コスト減のためどんどん人が減らされている状態であるにも関わらず作業量自体は減っていない。人を減らして運用できるスタイルではないからだ。リッチにリソースをつぎ込む形で作られたものなので、こいつは息をするだけで金がかかる。
続きを読む記憶から
語ろうと伝えようとする言葉は相手に通じない、聞く耳を持たないもしくは、その意味が伝わらない。その場合、伝えることをやめてしまう。心の中で諦めてそこに収める。相手を必要とする会話の難しさ、もしくは相手にそれを求める難しさでもある。同じような感じで理解や共感を得られない相手と会話をするだるさは、毎度初めから事情を事細かに説明しなければならない煩雑さと同義である。
人は、話を聞くより自分の話を聞いてほしい。そして相手の不幸の材料があれば親身になって聞いたふりをして、よその人にネタとして広める。そこに悪意がなくても会話をする手段として、聞いた話を面白おかしく伝える。本人はいないのだから、言ったかどうか知るすべはないのだから。
でも私は、私の人生の一部が面白コンテンツとして会ったこともない人に知られて広められる屈辱にどう対応すればよいのかわかりかねる。なぜなら相手を信じて話した内容を、その相手が一介の面白コンテンツとして他人に吹聴してまわるなど想像できるだろうか?
単に人を見る目がない、ということだろうか?
私が見たいのは下衆でもよいから対岸の火事を見ていたい。自らの足場が燃える様など見たくない。つらいと打ち明けた話をペラペラと他人に話されて、訳知り顔でさらなる他人に共有されることを望んではいない。とするなら、そもそも人にプライベートを話すのは無策であると言えよう。それがあなたの思う友達であったとしても。
どんなに親しくても他人なのだ。
貧困の視点
社会の底辺にはキリがない。あなたと私と、みている地点が同じとは限らない。見えない地点への理解は、想像を含むので正しい形をとらえることはできない。先入観と偏見と無知による歪んだイメージでとらえる。
分からないことがある、と納得するにはなかなか難しい。底辺との付き合いで、短期的視点、短絡的消費、刹那主義などあるけれど、それを改善するにはなかなか難しい。
衣食足りて礼節を知るのだから、衣食足りない奴らが人並みの考えや行動を取れるはずもないのだ。あさりたかり、その日の飯を手に入れることにかける意識は異常。その日の口が満足できれば彼らは良いのだ。
それを明日のために来週のために来月のために我慢せよと言っても、彼らはそれを実行することができない。貧困の根は近くにある。
錯覚
最近になって好きなものは好きだと錯覚していたものだったと気づくことが多く、自分らしさと合わせてなんだったのかと思うことが多い。
みんなが好き(と思われる)ものは自分も好きと錯覚する。例えば猫。例えばラーメン。
動物は好きだけどシロクマ以外は特に好きでもないし嫌いでもない。でも世の猫好きは猫カフェなどうまく商業化して成功しているしそこに金を落とす人もいるのだろう。
ラーメンも二郎やらラー博やらイベントやテレビでも特集されるのだから、人気があるのだろう。寿司やピザも同様。
どちらも好きでも嫌いでもないけど好きと言っておけば敵は作らないし楽だと思う。
本当に自分が好きなものを世の流れに囚われず見つけるのは難しい。迎合した方がそれらしいのではと思う。